cいらないcと父親は言った。でも少し食べなきゃ駄目よ緑が言うとc食べたcと彼は答えた。
ベットの枕もとには物入れを兼ねた小テブールのようなものがあってcそこに水さしやコップや皿や小さな時計がのっていた。緑はその下に置いてあった大きな紙袋の中から寝巻の着替えや下着やその他細々としたものをとり出して整理しc入口のわきにあるロッカの中に入れた。紙袋の底の方には病人のための食べものが入っていた。グレープフルーツが二個とフルーツゼリーとキウリが三本。
「キウリ」と緑がびっくりしたようなあきれた声を出した。「なんでまたキウリなんてものがここにあるのよまったくお姉さん何を考えているかしらね。想像もつかないわよ。ちゃんと買物はこれこれやっといてくれって電話で言ったのに。キウリ買ってくれなんて言わなかったわよc私」
「キウイと聞きまちがえたんじゃないかな」と僕は言ってみた。
緑はぱちんと指を鳴らした。「たしかにcキウイって頼んだわよ。それよね。でも考えりゃわかるじゃないなんで病人が生のキウリをかじるのよお父さんcキウリ食べたい」
cいらないcと父親は言った。
緑は枕もとに座って父親にいろんな細々した話をした。tvの映りがわるくなって修理を呼んだとかc高井戸のおばさんが二c三日のうち一度見舞にくるって言ってたとかc薬局の宮脇さんがバイクに乗ってて転がだとかcそういう話だった。父親はそんな話に対したcうんうんcと返事をしているだけだった。
「本当に何か食べたくないcお父さん」
cいらないcと父親は答えた。
「ワタナベ君cグレープフルーツ食べない」
「いらない」と僕も答えた。
少しあとで緑は僕を誘ってtv室に行きcそこのソファーに座って煙草一本吸った。tv室ではパジャマ姿の病人が三人でやはり煙草を吸いながら政治討論会のような番組を見ていた。
「ねえcあそこの松葉杖持ってるおじさんc私の脚をさっきからちらちら見てるのよ。あのブルーのパジャマの眼鏡のおじさん」と緑は楽しそうに言った。
「そりゃ見るさ。そんなスカートはいてりゃみんな見るさ」
「でもいいじゃない。どうせみんな退屈してんだろしcたまには若い女の子の脚見るのもいいものよ。興奮して回復が早まるんじゃないかしら」
「逆にならなきゃいいけど」と僕は言った。
緑はしばらくまっすぐ立ちのぼる煙草の煙を眺めていた。
「お父さんのことだけどね」緑は言った。「あの人c悪い人じゃないのよ。ときどきひどいこと言うから頭にくるけどc少くとも根は正直な人だしcお母さんのこと心から愛していたわ。それにあの人はあの人なりに一所懸命生きてきたのよ。性格もいささか弱いところがあったしc商売の才覚もなかったしc人望もなかったけどcでもうそばかりついて要領よくたちまわってるまわりの小賢しい連中に比べたらずっとまともな人よ。私も言いだすとあとに引かない性格だからc二人でしょっちゅう喧嘩してたけどね。でも悪い人じゃないのよ」
緑は何か道に落ちていたものでも拾うみたいに僕の手をとってc自分の膝の上に置いた。僕の手の半分はスカートの布地の上にcあとの半分は太腿の上にのっていた。彼女はしばらく僕の顔を見ていた。
「あのねcワタナベ君cこんなところで悪いんだけどcもう少し私と一緒にここにいてくれる」