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    ろりとした顔で言った。「本人は昔からウルグァイに行くだってわめいてるけどc行けるわけないわよ。本当に東京の外にだってロクに出られないんだから」

    「具合はどうなの」

    「はっきり言って時間の問題ね」

    我々はしばらく無言のまま歩を運んだ。

    「お母さんの病気と同じだからよくわかるよ。脳腫瘍。信じられる二年前にお母さんそれで死んだばかりなのよ。そしたら今度はお父さんが脳種瘍」

    大学病院の中は日曜日というせいもあって見舞客と軽い症状の病人でごだごだと混みあっていた。そしてまぎれもない病院の匂いが漂っていた。消毒薬と見舞いの花束と小便と布団の匂いがひとつになって病院をすっぽりと覆ってc看護婦がコツコツと乾いた靴音を立ててその中を歩きまわっていた。

    緑の父親は二人部屋の手前のベットに寝ていたc彼の寝ている姿は深手を負った小動物を思わせた。横向きにぐったりと寝そべりc点滴の針のささった左腕だらんとのばしたまま身動きひとつしなかった。やせた小柄な男だったがcこれからもっとやせてもと小さくなりそうだという印象を見るものに与えていた。頭には白い包帯がまきつけられc青白い腕には注射だか点滴の針だかのあとが点々とついていた。彼は半分だけ開けた目で空間の一点をぼんやりと見ていたがc僕が入っていくとその赤く充血した目を少しだけ動かして我々の姿を見た。そして十秒ほど見てからまた空間の一点にその弱々しい視線を戻した。

    その目を見るとcこの男はもうすぐ死ぬのだということが理解できた。彼の体には生命力というものが殆んど見うけられなかった。そこにあるものはひとつの生命の弱々しい微かな痕跡だった。それは家具やら建具やらを全部運び出されて解体されるのを待っているだけの古びた家屋のようなものだった。乾いた唇のまわりにはまるで雑草のようにまばらに不精髭がはえていた。これほど生命力を失った男にもきちんと髭だけははえてくるんだなと僕は思った。

    緑は窓側のベットに寝ている肉づきの良い中年の男に「こんにちは」と声をかけた。相手はうまくしゃべれないらしくにっこりと肯いただけだった。彼は二c三度咳をしてから枕もとに置いてあった水を飲みcそれからもそもそと体を動かして横向けになって窓の外に目をやった。窓の外には電柱と電線が見えた。その他には何にも見えなかった。空には雲の姿すらなかった。

    「どうcお父さんc元気」と緑が父親の耳の穴に向けってしゃべりかけた。まるでマイクロフォンのテストをしているようなしゃべり方だった。「どうc今日は」

    父親はもそもそと唇を動かした。cよくないcと彼は言った。しゃべるというのではなくc喉の奥にある乾いた空気をとりあえず言葉に出してみたといった風だった。cあたまcと彼は言った。

    「頭が痛いの」と緑が訊いた。

    cそうcと父親が言った。四音節以上の言葉はうまくしゃべれないらしかった。

    「まあ仕方ないわね。手術の直後だからそりゃ痛むわよ。可哀そうだけどcもう少し我慢しなさい」と緑は言った。「この人ワタナベ君。私のお友だち」

    はじめましてcと僕は言った。父親は半分唇を開きcそして閉じた。

    「そこに座っててよ」と緑はベットの足もとにある丸いビニールの椅子を指した。僕は言われたとおりそこに腰を下ろした。緑は父親に水さしの水を少し飲ませc果物かフルーツゼリーを食べたくないかと訊いた。
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