パトカーが残って路上でライトをぐるぐると回転させていた。どこかからやってきた二羽の鴉が電柱のてっぺんにとまって地上の様子を眺めていた。
火事が終わってしまうと緑はなんとなくぐったりとしたみたいだった。体の力を抜いてぼんやりと遠くの空を眺めていた。そして殆んど口をきかなかった。
「疲れたの」と僕は訊いた。
「そうじゃないのよ」と緑は言った。「久しぶりに力を抜いてただけなの。ほおっとして」
「僕は緑の目を見るとcミドリも僕の目を見た。僕は彼女の肩を抱いてc口づけした。緑はほんの少しだけびくっと肩を動かしたけれどcすぐまた体の力を抜いて目を閉じた。五秒か六秒c我々はそっと唇をあわせていた。初秋の太陽が彼女の頬の上にまつ毛の影を落としてcそれが細かく震えているのが見えた。それはやさしく穏やかでcそして何処に行くあてもない口づけだった。午後の日だまりの中で物干し場に座ってビールを飲んで火事見物をしていなかったとしたらc僕はその日緑に口づけなんかしなかっただろうしcその気持は彼女の方も同じだったろうと思う。僕らは物干し場からきらきらと光る家々の屋根や煙や赤とんぼやそんなものをずっと眺めていてcあたたかくて親密な気分になっていてcそのことをなんかの形で残しておきたいと無意識に考えていたのだろう。我々の口づけはそういうタイプの口づけだった。しかしもちろんあらゆる口づけがそうであるようにcある種の危険がまったく含まれていないというわけではなかった。
最初に口を開いたのは緑だった。彼女は僕の手をそっととった。そしてなんだか言いにくそうに自分につきあっている人がいるのだと言った。それはなんとなくわかってると僕は言った。
「あなたには好きな女の子いるの」
「いるよ」
「でも日曜日はいつも暇なのね」
「とても複雑なんだ」と僕は言った。
そして僕は初秋の午後の束の間の魔力がもうどこかに消え去っていることを知った。
五時に僕はアルバイトに行くからと言って緑の家を出た。一緒に外にでて軽く食事しないかと誘ってみたがc電話がかかってくるかもしれないからとc彼女は断った。
「一日中家の中にいて電話を待ってなきゃいけないなんて本当に嫌よね。一人きりでいるとねc身体がすこしずつ腐っていくような気がするのよ。だんだん腐って溶けて最後には緑色のとろっとした液体だけになってねc地底に吸いこまれていくの。そしてあとには服だけが残るの。そんな気がするわね日じっと待ってると」
「もしまた電話待ちするようなことがあったら一緒につきあうよ。昼ごはんつきで」と僕は言った。
「いいわよ。ちゃんと食後の火事も用意しておくから」と緑は言った。
*
翌日の「演劇史2」の講義に緑は姿を見せなかった。講義が終わると学生食堂に入って一人で冷たくてまずいランチを食べcそれから日なたに座ってまわりの風景を眺めた。すぐとなりでは女子学生が二人でとても長いたち話をつづけていた。一人は赤ん坊でも抱くみたいに大事そうにテニスラケットを胸に抱えcもう一人は本を何冊かとレナードバーンスタインのlpを待っていた。ふたりともきれいな子でcひどく楽しそうに話をしていた。クラブハウスの方からは誰かがベースの音階練習をしている音が聞こえてきた。ところどころに四c五人の学生のグループがいてc彼らは何やかやについて好き勝