直子はその話をすると喜んだ。「その人に会ってみたいわc私。一度でいいから」
「駄目だよ。君cきっと吹きだすもの」と僕は言った。
「本当に吹きだすと思う」
「賭けてもいいね。僕なんか毎日一緒にいたってcときどきおかしくて我慢できなくなるんだもの」
食事が終ると二人で食器を片づけc床に座って音楽を聴きながらワインの残りを飲んだ。
僕が一杯飲むあいだに彼女は二杯飲んだ。
直子はその日珍しくよくしゃべった。子供の頃のことやc学校のことやc家庭のことを彼女は話した。どれも長い話でcまるで細密画みたいに克明だった。たいした記憶力だなと僕はそんな話を聞きながら感心していた。しかしそのうちに僕は彼女のしゃべり方に含まれている何かがだんだん気になりだした。何かがおかしいのだ。何かが不自然で歪んでいるのだ。ひとつひとつの話はまともでちゃんと筋もとおっているのだがcそのつながり方がどうも奇妙なのだ。aの話がいつのまにかそれに含まれるbの話になりcやがてbに含まれるcの話になりcそれがどこまでもどこまでもつづいた。終りというものがなかった。僕ははじめのうちは適当に合槌を打っていたのだがcそのうちにそれもやめた。僕はレコードをかけcそれが終ると針を上げて次のレコードをかけた。ひととおり全部かけてしまうとcまた最初のレコードをかけた。レコードは全部で六枚くらいしかなくcサイクルの最初はサージャントペパーズロンリーハーツクラブバンドでc最後はビルエヴァンスのワルツフォーデビーだった。窓の外では雨が降りつづけていた。時間はゆっくりと流れc直子は一人でしゃべりつづけていた。
直子の話し方の不自然さは彼女がいくつかのポイントに触れないように気をつけながら話していることにあるようだった。もちろんキズキのこともそのポイントのひとつだったがc彼女が避けているのはそれだけではないように僕には感じられた。彼女は話したくないことをいくつも抱えこみながらcどうでもいいような事柄の細かい部分についていつまでもいつまでもしゃべりつづけた。でも直子がそんなに夢中になって話すのは初めてだったしc僕は彼女にずっとしゃべらせておいた。
しかし時計が十一時を指すと僕はさすがに不安になった。直子はもう四時間以上ノンストップでしゃべりつづけていた。帰りの最終電車のこともあるしc門限のこともあった。僕は頃合を見はからってc彼女の話に割って入った。
「そろそろ引きあげるよ。電車の時間もあるし」と僕は時計を見ながら言った。
でも僕の言葉は直子の耳には届かなかったようだった。あるいは耳には届いてもcその意味が理解できないようだった。彼女は一瞬口をつぐんだがcすぐにまた話のつづきを始めた。僕はあきらめて座りなおしc二本目のワインの残りを飲んだ。こうなったら彼女にしゃべりたいだけしゃべらせた方が良さそうだった。最終電車も門限もc何もかもなりゆきにまかせようと僕は心を決めた。
しかし直子の話は長くはつづかなかった。ふと気がついたときc直子の話は既に終っていた。言葉のきれはしがcもぎとられたような格好で空中に浮かんでいた。正確に言えば彼女の話は終ったわけではなかった。どこかでふっと消えてしまったのだ。彼女はなんとか話しつづけようとしたがcそこにはもう何もなかった。何かが損なわれてしまったのだ。あるいはそれを損ったのは僕かもしれなかった。僕が言ったことがやっと彼女の耳に届きc